Editors’ Note: This blogpost was written originally in May 2020.

 

2020年5月9日に、日本のCOVID-19による死者は、総計600名を超えました。この数字をどうみるかは、国内でも種々意見が分かれています。政府は当面、現在の緊急事態宣言を延長する方針を固めました。他方で、今後の日本経済を憂い、この肺炎のために国民の生活がなかなか通常に戻らないことを疑問視する声もあります。

死者数ということでいえば、たしかに、日本では毎年、600名をゆうに超える数の方が季節性インフルエンザや結核で亡くなっています(2018年の確定値では、順に3,325人と2,204人)。また、肺炎による死者数も、近年やや減少したとはいえ、桁違いです(同、94,661人)。これらの疾病がさほど問題とされず、COVID-19 に起因する肺炎のみが特別に警戒されている現状は、たしかに、死者数に見合わないように映るのかもしれません。

日本で現状、死者数が抑えられている事由は定かではなく、のちの検証を待たねばなりません。しかし、日本がCOVID-19に慎重な姿勢をとりつづける事由は、その疫史や防疫史にも関係があるようです。日本はここ一世紀の間、人口全体に影響をおよぼすような未知の疫病を経験することがありませんでした。疾病構造は明治期以降、徐々に急性病から慢性病へとシフトし、それをうけて当初の強権的な公衆衛生制度も、より人権に配慮した制度へと改変されました。そこへ今回のCOVID-19 が現れ、様子見の対応がつづけられているというわけです。

では、日本はこれまで、どのような感染症を経験し、対策を打ちだしていたのでしょうか。近代以降の日本における伝染病の流行と公衆衛生制度について、簡単にみてみましょう。

 

「伝染病」の誕生

ヒトからヒトへと感染し、一度に多くの死者をだす伝染性の感染症を、日本語ではとくに「伝染病」と呼びます。この「伝染病」という概念の成立は、日本では比較的新しく、幕末期のようです。

それ以前にも、「伝染」という言葉で病いの流行を表現することはありましたが、それはあくまで、近接するひとびとが同じような身体症状を一時に発する現象を指すにとどまりました(近世後期に、天然痘や梅毒を、毒気の物理的な伝播により引き起される「伝染病」として説いた医師もいましたが、その学説は当時、ほとんど受け入れられませんでした)。

日本で「伝染病」という概念が成立するのに大きく影響したのは、1820年代の局地的な腸チフスやコレラの流行です。中国・オランダとの通商の窓口であった長崎から起こった未知の疫病の流行は、それらが海外からもたらされることを医師らに認識させ、西洋の疫学書の翻訳を促しました。1850年代に、ふたたびコレラが全国的に流行した際には、伝染元の西洋でおこなわれる治療法が、医師らにより積極的に試されました。幕府もまたこれを機に、外来の疫病の侵入を防ぐべく、洋学研究機関の教授陣に命じて、西洋の開港検疫制度を調査させています。

 

伝染病に対する公衆衛生制度の拡充

この伝染病、とりわけ急性伝染病への対策を最重要課題として、日本では明治期より公衆衛生制度が設計されてゆきます。

第一に着手されたのは、天然痘対策でした。天然痘は、日本列島にすでに蔓延していたこともあり、種痘をもちいた流行の抑制政策がとられました。種痘の法制化がすすめられ、1876年以降は全国民に強制されるようになります(その後、日本では1976年まで一世紀の間、強制種痘の法的枠組みが継続されます)。天然痘は明治期に数回、1万人以上の死者をだす流行を引き起こしましたが、大正期以降は(戦後の引揚げ期をのぞき)流行がほぼ制圧されました。

その他の急性伝染病については、当初、個別に対策がとられていました。しかし、1879年にコレラが大流行し、人口約3,650万人のうち約16万人が罹患、10万人超が死亡したのを機に、包括的な「伝染病予防法」(1880年)が制定され、対策が本格化します。この法律は、コレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・天然痘の6つを「法定伝染病」に指定し、患者の届出・収容・隔離、死体の処理、消毒、清掃、検疫、群集の禁止や交通遮断などに関する規定を網羅していました。

「法定伝染病」はその後も、重点的にマークすべき伝染病が現れるたびに追加され、1897年には猩紅熱とペストが、また1922年にはパラチフスと流行性脳脊髄膜炎が加えられました(なお、1918年からのインフルエンザの世界的な流行により、日本でも約40万人の死者がでましたが、この流行性感冒は一過性のものとみなされ、「法定伝染病」としてマークされませんでした)。

これら数種の「法定伝染病」の流行をつねに監視し抑えこむ体制により、全死亡者数に占める「法定伝染病」による死亡者数の割合は、非常に低い水準に保たれました。1880年から終戦までの約80年のあいだに、その割合が5%を超えたのは初期の7年のみで(最高値は、コレラ・腸チフス・天然痘が大流行した1886年の16%。実数にして150,771人)、のこりの期間は約2%(実数で2万人前後)で推移しました。

対照的に、戦前に死亡者総数に占める割合が高かったのは、慢性の伝染病、とりわけ結核による死者でした。近世期より「労咳」として知られたこの病いは、明治中期に工場労働者を襲う警戒すべき伝染病として着目され、1899年にはじめて全国的に死者数が調査されました。その当時ですでに、死者総数に占める死者数の割合は約8%でしたが、以降も漸増して、終戦前には14%(1943年の実数で171,473人)に達します。各地には結核療養所が設置され、1919年に「結核予防法」が制定されて以降は感染源対策も強化されました。しかし、1930年代より1950年代まで、結核は死因の第一位を占めつづけました。

このように、日本の伝染病に対する公衆衛生制度は、まずは急性伝染病を対象とし、そこに明治中期より慢性伝染病がくわわりました。とはいえ、急性伝染病が、流行による人的・社会的被害の大きさから、総じて高度に警戒されたのに対し、慢性伝染病は、疾病ごとに対応が分かれました。たとえば、結核と並んで戦前の死因の上位3位を占めた肺炎や胃腸炎には、特段の対策はとられませんでした。

 

戦後日本の感染症対策

伝染病に対する戦前の公衆衛生制度は、戦後も大枠は踏襲されます。そうしたなか、着目すべきは1948年に、従来の「種痘法」(1909年制定)が廃止され、あらたに「予防接種法」が制定されたことでしょう。同法の制定により、強制的な予防接種の対象疾病が、天然痘以外にも一挙に拡大されました(天然痘・ジフテリア・腸チフス・パラチフス・結核・発疹チフス・ペスト・コレラ・猩紅熱・インフルエンザ・ワイル病・百日咳の12種。以後、増減。結核に対するBCGは「結核予防法」にて別に規定)。種痘がながく天然痘の流行を抑えてきた実績が評価され、予防接種という技法が公衆衛生の手法としてひろく採用されるに至ったのです。

しかしながら、予防接種をめぐっては、しばしば医療事故や「副反応」問題が起きたため、ワクチンごとに接種の見合わせや再開がくりかえされました。そして、1960年代後半から、種痘の「副反応」が大きな社会問題となり国家の責任を追及する訴訟が起こりはじめると、予防接種を法により強制する制度自体が見直されるようになります。1976年に、「予防接種法」の罰則規定は廃止され、予防接種は国が接種を「勧奨」するものと国民が「任意」で受けるものの2種類になりました。さらに翌1977年には、予防接種がもとで健康が害されたひとびとを救済する制度が創設されます。予防接種制度の、こうしたより人権に配慮した改変は、現在までつづきます。

近年の人権という観点からの感染症対策の見直しは、検疫や隔離、封鎖、交通の遮断といった公衆衛生の手法にもおよびます。1998年には、日本の伝染病対策の中心的な法的基盤となってきた「伝染病予防法」が廃止され、人権の尊重を理念に掲げる「感染症予防法」が制定されます。同法は、感染症を症状の重さや病原体の感染力によって8つのカテゴリー分類し(以下の表を参照)、対応をそれぞれに細かく変えています。

 

一類感染症 天然痘、ペスト、ラッサ熱、…
二類感染症 ポリオ、結核、ジフテリア、MERS、SARS、…
三類感染症 コレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、…
四類感染症 マラリア、発疹チフス、日本脳炎、狂犬病、…
五類感染症 インフルエンザ、AIDS、梅毒、麻疹、…
新型インフルエンザ等感染症 新型インフルエンザ
指定感染症 COVID-19
新感染症 ――

 

なお、今回のCOVID-19が分類された「指定感染症」とは、四類・五類に該当する感染症のうち、未知の人的・社会的被害をもたらす可能性のあるものをさします。つまり、これまで日本で対策がとられてきた感染症のレパートリーに準じはするが、リスクが見積もりがたく、それゆえ臨機応変にどのような措置もとられうるという、非常に曖昧なカテゴリーに、COVID-19は据えられたわけです。

以上、簡単に、近代以降の伝染病/感染症の歴史と防疫史を、現代までたどってきました。日本は今後もしばらく、この特殊な「指定感染症」に向き合うことを強いられそうです。予防接種待望論もありますが、近年の動向からすれば、それもまた「副反応」等の安全面の問題で、どこまで公衆衛生の手法として活用されうるかは不明です。先が見通せない閉塞感のなか、いかに現下の曖昧な状況をしのいでゆくのか。日本には日本の、死者数には還元されない、独特な闘いがあるようです。

 

【参考図】

明治初期の衛生の啓蒙

「伝染病予防法」制定後まもない時期に出版されたボードゲーム(すごろく)。前年(1883年)に発足した大日本私立衛生会が、国民の啓蒙のために作成しました。「出生」をスタートとして、サイコロの目にしたがい、「種痘」「幼稚園」「学校」「病院」「労働」「不潔」「運動」「滋養物」等のマスをすすみ、ゴール(幸福で長命な人生)を目指します。

ここに掲載するのは、その一部で、「清潔」と「飲料水(のみみず)」のマス。病気のほとんどは、不潔な生活環境からくるとして、住まいを清潔に保ち、清らかな水をくむよう諭しています。

(出典:青木半右衛門編「大日本私立衛生会 衛生寿護禄(すごろく)」石川恒和、1884年11月17年、架蔵)

【参照】

・厚生省医務局編『医制百年史』記述編・資料編、ぎょうせい、1976年。

・山本俊一『日本コレラ史』東京大学出版会、1982年。

・手塚洋輔『戦後行政の構造とディレンマ ―― 予防接種行政の変遷』藤原書店、2010年。

・香西豊子「予防接種の「副反応」をめぐる論争 ―― 一九七〇年代の「種痘禍」論争から

」中川・美馬・黒田・佐藤編『現代社会における健康と病をめぐる論争』ミネルヴァ書房、2020年刊行予定。

 

Toyoko Kozai is a researcher specializing in the history of medicine and medical sociology, and is an Associate Professor in the Department of Sociology at Bukkyo University in Kyoto. Her research examines the history of health policies surrounding medical hygiene and corporal donation (body, organs, blood) in ways that would seed further analyses of medical practice and bioethics in contemporary Japan.

 

Related:

Epidemic Diseases and the Public Health System in Modern Japan :: Kōzai Toyoko (Japan)

The Japanese Islands and Infectious Diseases :: Toyoko Kozai (Japan)

日本列島と感染症 :: 香西豊子 (日本)

 

* * *

The Teach311 + COVID-19 Collective began in 2011 as a joint project of the Forum for the History of Science in Asia and the Society for the History of Technology Asia Network and is currently expanded in collaboration with the Max Planck Institute for the History of Science (Artifacts, Action, Knowledge) and Nanyang Technological University-Singapore.

近現代日本における伝染病と公衆衛生制度 :: 香西豊子 (日本)
Tagged on: